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ゆかりの人物Historical Figures

丸尾 文六 まるお ぶんろく

牧之原台地茶園開拓と茶業発展に寄与

1870年(明治3年)、明治維新により大井川の渡船が解禁されると、川越人足をはじめとする多くの失業者が発生しました。その救済策として牧之原台地の開墾と茶園事業が開始され、当時小泉原(現在の御前崎市朝比奈原)で茶の栽培をしていた池新田村(現在の御前崎市池新田)の丸尾文六が、世話人として川越人足33名と共に開墾事業を任されました。
1871年(明治4年)文六は開墾のために布引原(牧之原市)に移住し、1883年(明治16年)には広大な牧之原茶園の造成を成し遂げました。その頃には人足達は経済的にも自立し、この開墾事業の当初の目的であった、川越人足制度廃止に伴う失業者の救済を実現させました。
開拓された茶畑は現在「牧之原大茶園」と呼ばれ、日本茶の一大生産地となり静岡茶ブランドを国内外に認知させる土壌となっています。

大澤 権右衛門 おおさわ ごんえもん

さつまいも伝来の立役者

江戸時代中期の1766年(明和3年)、御前崎沖で薩摩藩の御用船「豊徳丸」が座礁する事故がありました。村役人であった大澤権右衛門は、村人と協力し船員24名を助け、衣類や食料を分け与え手厚く介抱しました。そこで薩摩藩は謝礼金20両を渡そうとしましたが、権右衛門は「当然のことをしたまで」と断り、代わりに3本のサツマイモを譲り受けました。その清廉な人柄に感銘を受けた薩摩藩は、門外不出であった栽培方法も快く伝えました。こうして御前崎の地に伝来したサツマイモは、地域特有の強い海の潮風や砂地の土壌に適した植物だったこともあり、主に海岸部で栽培されるようになり、遠州地域(静岡県西部)に広まりました。
このことから大澤権右衛門は「甘藷翁(かんしょおう)」「いもじいさん」と称え、御前崎地区の海福寺では「いもじいさん(大澤権右衛門翁)の碑」と供養塔が建てられています。

栗林 庄蔵 くりばやし しょうぞう

いも切り干しの考案に努めた白羽地区の偉人

19世期半ば、白羽村(現在の御前崎市白羽地区)に住む栗林庄蔵が、茹でたサツマイモを薄切りにし、セイロで干す「煮切り干し」を考案したのが「いも切り干し」の始まりです。
静岡県遠州地方では干しいものことを広く「いも切り干し」と呼び、冬の保存食や子ども達のおやつとして重宝されてきました。農家にとっては冬の家計を支える主力商品でもありました。この背景には、この地域で冬に吹く寒冷な西風、「遠州のからっ風」が良質ないも切り干しづくりに適していることもあげられます。
白羽地区新谷には栗林庄蔵翁の碑が建立されています。

TOPICS

戦中戦後の食料危機を乗り越えた御前崎のサツマイモ

第2次世界大戦中、戦況の悪化とともに日本国内では食料不足が深刻化し、当時の政府は工業用原材料や食料政策としてさつまいもに注目しました。1943年(昭和18年)、サツマイモは食料増産の重要作物として脚光を浴び、全国の市町村に「甘藷増産技術要項」を配布して栽培を奨励し、収量調査も行いました。 これにより、それまで救荒作物として扱われていたサツマイモの栽培技術は、戦中・戦後に飛躍的な進化を遂げることになりました。 江戸中期からサツマイモが伝来していた御前崎では、サツマイモの品種や栽培、切干づくりに独自で取り組んでいたため、戦中・戦後を通じ食料危機を無事に乗り切ることができたそうです。

下村 勝次郎 しもむら かつじろう

民間動力漁船建造の先駆者

もっと速く進む船が造れないだろうかといつも考えていたという下村勝次郎は、自家用船に発動機をつけようと決意し、1908年(明治41年)に民間初の動力漁船・第一駒形丸(船長約16メートル、重量約20トン)、その半年後に第二駒形丸を建造しました。全国に先駆けて発動機付き漁船建造に着手し、御前崎を遠洋漁業の町として発展させ、水産業界の飛躍的な発展の礎となりました。
御前崎地区にある「下村勝次郎翁顕彰碑」は、その功績を讃えて2019年(令和元年)に建立されました。